開発検証用BLOG

⽇本武道館をアップデートせよ 1 ――⽵中⼯務店の挑戦【序章】

作成者: Human Resocia|2022年08月5日

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須田 寛氏(JR東海 相談役)は「当時の国鉄はお金にゆとりがなかったので、速効的な1案と2案が有力だったと聞いている」と話す。わずかな投資で済む案でほぼ決まりそうだったのを覆したのが、十河信二国鉄総裁だ。昭和30年に総裁となった十河氏は南満州鉄道株式会社理事の経験から「これからの鉄道は広軌でなければダメなんだ。高速運転あるいは大量の輸送には絶対に広軌だ」と強く主張。それでもまだ、鉄道斜陽論が多数派で、慎重に検討すべきというのが当時の世論だった。

そこへ追い風が吹く。陸軍・海軍解体後、そこに所属していた超一流の技術者たちが鉄道技術研究所(現在のJR総研)に加わった。彼らの技術力は高速鉄道開発に非常に大きな貢献をしたのだ。研究所は東京・銀座のヤマハホールで講演会を開き、そこで「広軌における時速250kmの高速運転は可能で、東京~大阪間なら3時間運転も可能だ」という見解を発表。これが非常に大きな反響を呼び、新幹線をつくるための世論形成を後押ししたのである。

昭和34年4月20日、東海道新幹線の新丹那トンネルで起工式がおこなわれた。……そうはいっても新丹那トンネルは戦前に数百m、掘り進んで止まっていたので、すでに完成したトンネル入口の前で起工式をおこなうという不思議な光景がそこにあった。

その後、早急に完成させた鴨宮~綾瀬間のモデル線区間でさまざまな実験がおこなわれた。車内を気密構造化しなければ、トンネルに入ったときに乗客の耳に痛みが走り、車内の天井が波打つというような異常現象も分かってきた。

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実はこの段階で、世界銀行から日本円にして約300億円を借り入れている。「国が新幹線工事を保証することが内外に示されたという意味において、世銀の借款は非常に大きな意味があった」と須田氏は話すものの、世銀は貨物輸送を追加するよう強く主張。実際に工事の着工まで進んだが、工事が遅れているあいだに貨物をめぐる経済環境の変化等により実現せずに終わったのだとか。

さらなる問題は、用地買収だ。東京オリンピック等によって用地代や工事費が高騰。「結局1,948億円どころではなく倍の工費がかかった」と須田氏。「お金がなくなって駅プラットホームの屋根が6両分しかなく、傘をさして新幹線を待つような駅さえあった」というほどだ。

最後は名称だ。「東海道線の複々線化」で認可を受けていたため、あくまでも東海道線という名前はそのまま付けなければならない。そこで正式名称は「東海道本線(新幹線)」、営業上の線名は「東海道新幹線」、英語もそのままの「Tokaido Shinkansen」で開業したのだった。360両しかない車両を使い、60本/日のダイヤでスタートした。当時の普通車で料金と運賃を合わせて東京・新大阪間約3,000円。当時、航空機が6,000円だったので、その半額だ。「これが当初新幹線をよく利用いただけた大きな理由ではないか」と須田氏は分析する。

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ああああーーー