⽇本武道館をアップデートせよ 2 ――⽵中⼯務店の挑戦【後編】

2022年08月5日

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連続講演会「インフラ整備70年講演会~戦後の代表的な100プロジェクト~」(主催:建設コンサルタンツ協会)の第11回は、「日本の大動脈として経済の発展に貢献した社会基盤・東海道新幹線」。オリンピック前の世界に類を見ない大工事は、いかにおこなわれたか? 東海道新幹線に関わった建設レジェンドたちが振り返った。

記事初出:『建設の匠』2019年10月7日
取材協力/建設コンサルタンツ協会 インフラストラクチャー研究所

 

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まず東海道新幹線の歴史について語りはじめたのは原恒雄氏(元JR東海副社長、前人事院総裁)。東海道新幹線が開業したのは1964(昭和39)年10月のことだが、開業前には「鉄道斜陽論」があったと原氏は言う。

「斜陽論が唱えられた時代に、逼迫していた東海道本線の輸送力増強について、新たな在来線をつくる方法が常識的だったが、国鉄総裁・十河信二は標準軌かつ別線による、新たな高速鉄道をつくることを決め、強力に推進した。結果として東海道新幹線の成功は、その後の国内、あるいは海外の鉄道の高速化に非常に大きな影響を及ぼした」

開業後の23年間、国鉄の財政は厳しく、新幹線がさらに高速化するには至らなかった。輸送力の強化も限られたものだった。そんな中、国鉄が民営・分割され、東海道新幹線はJR東海に引き継がれる。その後、技術開発、抜本的な強化策を講じた結果、東海道新幹線は日本の大動脈として進化を遂げ、現在では日本経済にとってなくてはならない存在になったと話した。

 

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日本の鉄道は1872(明治5年)、イギリスの指導を受けて新橋~横浜間に開通した。この「イギリス主導」がのちのちネックになる。というのも当時、イギリスが海外領土に使っていたレールの幅1,067mmのいわゆる「狭軌」の鉄道で出発したからだった。これは現在でもJR在来線で使われているほどで、広軌(1,435mm)に改築しようとしたものの、経費面から、結局断念せざるをえなかった。昭和になって走った特急つばめ号(東京~神戸間)も狭軌の枠内で挑戦したものの、最高時速100kmの壁を超えられなかった。

昭和10年代になると大陸諸国への輸送も増加してきたため、さらに東海道・山陽線の輸送力は逼迫する。昭和14年、国鉄は幹線調査委員会を設置。学識経験者の意見を聞きつつ「東海道・山陽道の輸送力をどうするか」という検討をした結果、「弾丸列車計画」が閣議決定され、着工する。

しかし太平洋戦争に突入し、昭和18年以降の工事は中断せざるを得なかった。しかし、日本坂トンネル、新東山トンネル、新丹那トンネルは一部着工していたため、それが戦後工事の遺産として役立つこととなったのである。

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戦後、経済復興していく日本。しかし道路整備が遅れていたため、鉄道にかかるウエイトは非常に高かった。全国のかなりの貨物が東海道線に集中した。当然、戦前と同じような輸送力の逼迫が起きる。こうして新幹線についての議論がふたたび起きた。

戦前と違うのは、蒸気機関車による牽引ではなく、線路にかかる負担が少なく、高速運転も可能な交流電車にしようとなったこと。仙台と山形を結ぶ仙山線での非電化区間を使った実用実験の結果が活かされた。

珍しいのは、昭和32年の小田急電鉄のSE車を使用してのテストである。SE車は重心が低くて軽量化されており、非常に画期的な車両だった。これを国鉄が借り、函南~三島間で時速145kmをマークしたのだ。こうした様々な実験を重ね、電車による高速化の技術的な基礎を固めていったのである。

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